二十一代雄略天皇
(2)倭王武

   武内宿禰の後裔と称する平群真鳥を大臣、大伴室屋と物部目を大連に任命し、雄略天皇は軍事力で専制王権を確立した。

   まず、雄略天皇の外交をみてみよう。
   雄略二年、蓋鹵王が百済王に即位した。天皇は阿礼奴跪を遣わして、女郎を乞わせた。百済は慕尼夫人の娘、適稽女郎を天皇に奉った。その後、適稽女郎は、雄略天皇により焼き殺される。天皇は史部の身狭村主青と檜隈民使博徳を寵愛した。
   雄略五年、百済の蓋鹵王(こうおろう)は人づてに適稽女郎が焼き殺されたことを聞き、議って「昔、女を献上して釆女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と言い、弟の軍君(昆支君)を倭国に行かせて天皇に仕えさせようとした。その時、蓋鹵王は臨月の婦を軍君に与えて、倭国に遣わした。孕んでいた婦は筑紫の各羅嶋で子を産んだ。その子は百済に帰された。それが後の武寧王である。武寧王の誕生を『宗書』では461年としている。
   雄略六年、呉国(劉宋)が使いを遣わして貢物を献上した。(『宋書』倭国伝に記載は無い)
   雄略七年、美人の妻自慢の吉備上道臣田狭を任那の国司に任じ、その間に天皇は田狭(たさ)の妻稚媛(わかひめ)を強奪した。田狭は任地に赴いてから、天皇が妻を召し入れたことを聞いて、身の危険を感じ新羅に逃げ込む。この時期、新羅とは不和だったので、天皇は田狭の子の弟君と吉備海部直赤尾に新羅討伐を命ずる。弟君は百済に行くが新羅討伐はしなかった。『記』では、弟君と赤尾が新漢(いまきのあや)を帰化人として連れ帰る。
   雄略八年、身狭村主青と檜隈民使博徳を呉国(劉宋)に遣わす。(『宋書』倭国伝に記載は無い)。この年、倭国への朝貢を怠った新羅は高句麗に援助を求め、高句麗は精鋭を送って新羅を護らせた。しかし、高句麗が新羅を狙っている事を知った新羅は援兵を殺す。そこで高句麗は新羅に大軍を派遣した。それを怖れた新羅王は任那王に救いを求めた。任那王は、当時設置されていた日本府の膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に助けを求めた。膳臣(かしわでのおみ)らは歩兵・騎兵で挟み撃ちにして高句麗軍を大いに破った。高句麗軍を撃退した後、膳臣は新羅王に「お前の国は至って弱い。日本軍が救わなければ、必ず乗っ取られていた。以後は天朝に背いてはならない」と申し渡した。(この新羅を見ていると、朝鮮動乱の時、南侵した北朝鮮軍と中共軍との戦闘を、アメリカ軍を中心とする国連派遣国軍に丸投げし、逃げ回るだけであった韓国政府と韓国軍を彷彿とさせる)。
   雄略九年、三月、天皇は自ら新羅を討とうと思った。神は天皇を戒めて「行ってはいけない」と言った。天皇は行くのをやめた。そこで、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに「新羅は西の国にあって、世を重ねて臣を称した。朝聘を違えることはなく、貢物も適当だった。しかし私が天下の王になってから、対馬の外に身を置き、高句麗の貢物を阻み、百済の城を呑み込んだ。また朝聘を欠き、貢物を納めることもない。狼の子のように荒い心があり、飽きては去り、飢えては近づく。お前たち四卿を大将に任ずる。軍をもって攻め討ち、天罰を加えよ」と命じた。この新羅遠征で大勝するが、大伴談連は戦死、紀小弓宿禰は病死する。また、百済王も策略をたて、倭国軍の内紛を誘う。同年五月、将軍と兵が帰国した。紀小弓宿禰は田身輪邑に葬られた。小鹿火宿禰は角国にとどまった。
   雄略十二年、身狭村主青と檜隈民使博徳を呉(劉宋)に遣わす。
   雄略十四年、身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉が献じた手末(たなすえ)の才伎(てひと)の漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津に帰った。

   以上、雄略天皇の半島と劉宋(呉国)との関連外交をまとめてみた。私は、安康天皇の崩御を463年、雄略天皇の即位を464年に当てている。すると雄略十二年は476年となり、『宋書』倭国伝が記す朝貢年477年とほぼ合う。では、雄略天皇の宋王朝への朝貢が477年まで遅れたのはなぜだろうか? 劉宋時代の後半の歴史をみてみると、以下の様になる(Webを参照)。

   文帝時代から始まった子が父を、弟が兄を殺すという皇族の内紛は宋を衰退させる一因となった。孝武帝も自身の兄弟や一族を次々と殺戮した。孝武帝が464年に崩御すると、長男の劉子業が跡を継いだが、性格が凶暴・残忍で戴法興・柳元景・顔師伯ら重臣を殺したため、465年に寿寂之・姜産之により殺害された。新しい皇帝明帝も残忍で孝武帝の子を16人も殺害した。またこの明帝の時代には北魏からの侵略が激しくなり、山東半島から淮北までの領域を完全に奪われた。明帝は寺院の建立や無謀な遠征を毎年続けて濫費を繰り返し、宋の財政は悪化した。472年に明帝が崩御すると、長男の劉昱が跡を継いだが、この時にも孝武帝の遺児12人が殺戮される悲劇が繰り返されている。このように歴代が内紛を繰り返した結果、宋は衰退し、479年に滅亡した(Web)。

   以上の様に、460年代から宋王朝は激動しかつ北魏の激しい侵略をうけていたのである。また、雄略天皇も、七年から十年にかけて、新羅や高句麗との戦争を繰り返している。そのため雄略天皇は劉宋の内情と半島の情勢をみきわめつつ、十二年(477年)に東漢の漢人の身狭村主青と檜隈民使博徳を遣使として劉宋に送ったのである。477年の遣使で、武は自ら「使持節都督倭 百済 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓七国諸軍事安東大将軍 倭国王」と称したのだ。翌年478年には、長文の上奏文を以て、順帝から「使持節 都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六國諸軍事安東大將軍倭王」を叙任されている。これが有名な「倭王武の上奏文」である。記述したのは、東漢氏の書師であったのだろう。しかし皇帝から叙任された安東大將軍の統括国から百済が欠けている。この時、宋王朝では、百済は倭国の屯倉と認識されていたのであろうか。

   この後、雄略二十年に、百済が高句麗に攻滅ぼされる。王・大后・王子らは、みな高句麗軍によって殺された。雄略二十一年、天皇は百済が高句麗に破れたことを聞いて、久麻那利を汶洲王に賜って、百済を救い興した。雄略二十三年、百済の文斤王が薨じた。天皇は昆支王の五人の子の中で、聡明な第二王子の末多王を王とした。そして兵器を賜り、筑紫国の兵士五百人を護衛につけて帰国させた。これを東城王という。同年、筑紫の安致臣・馬飼臣らが、船軍を率いて高句麗を討った。

   雄略二十三年八月、天皇崩御。劉宋滅亡後、斉、梁、陳と華南に王朝が乱立する。この時代、国史の編纂も決して十分ではなかった。479年、南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号(『南斉書』倭国伝)。502年、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号(『梁書』武帝紀)。この時の倭王は「武」になっている。479年の時点では、「武」は雄略天皇と見て良いであろう。雄略天皇の没年の西暦年は分からないが、雄略天皇没後、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇が短期の在位期間をもって皇位に即く。502年の時点の「武」は武烈天皇とするのが合理的である。