十五代応神天皇
(1)皇后と妃

   摂政六十九年、神功皇后崩御。狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られる。

   神功皇后と武内宿禰は、応神天皇を皇位に即かせて邪馬台国王統を再興した。神功皇后は当然、邪馬台国王統の継続を望んだはずである。どうすれば邪馬台国王統の継続ができるか? それは応神天皇の皇后と妃に邪馬台国後裔をあてればよい。まず、皇后であるが、仲姫である。仲姫を含め高木之入姫(高城入姫)と弟姫の三姉妹が応神天皇に娶られている。姉妹の父は品陀真若王(ほむだのまわかのおう)で母は金田屋野姫である。その金田屋野姫の父は建稲種(たけいなだね)であり、尾張国造乎止与の子で宮簀媛は妹になる。また、品陀真若王の母は建稲種の娘の志理都紀斗売(しりつきとめ)である。従って、応神天皇の皇后は、神功皇后と同じ尾張氏の血統であり、天香語山の末裔なのである。つまり、饒速日と不弥国物部の天道日女の末裔にもなり、邪馬台国王統の継承にふさわしい。皇后仲姫が産んだ皇子が大鷦鷯(おほさざき=大雀、後の仁徳天皇)である。姉の高木之入姫が生んだ皇子に大山守がいる。次妃の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は応神天皇が宇治に行幸した時、見初めた在地の豪族の娘である。宮主宅媛が生んだ菟道稚郎子 (うじのわきいらつこ) が皇太子となる。ただし、『先代旧事本紀』では、菟道稚郎子を生んだのは物部多遅麻大連 (もののべのたじまのおおむらじ) の娘の香室媛 (かむろひめ) となっている。物部多遅麻は、宇摩志麻治の九世孫であり、仲哀天皇崩御を秘することを武内宿禰、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以と共に命ぜられている。大役を果たした功績で、神功摂政元年に大連に任じられていた。物部多遅麻は神功皇后の腹心の臣であったのだ。その他に、日向国の絶世の美女の髪長媛を紹介されるが、応神天皇は妃とはしていない。髪長媛が狗奴国末裔であったのか否かの詳細は不詳である。応神天皇死後、立太子していた菟道稚郎子と大鷦鷯皇子は皇位継承を譲りあい、三年空位後大鷦鷯皇子が即位して仁徳天皇になる。菟道稚郎子太子が宇治の豪族の後裔であれば、邪馬台国の血統を維持することが出来なくなる。応神天皇は母の神功皇后の願望も知らずして皇太子を選んだことになる。まさに「母の心、子知らず」である。菟道稚郎子太子は神功皇后の願望を察知していたので天皇に即位しなかったのであろう。長兄の大山守は、応神天皇が太子にしてくれなかったことを恨んで謀反を起こすが、菟道稚郎子太子の軍勢に宇治川のほとりで討取られる。大鷦鷯皇子との皇位継承の譲り合いを決着させるため、菟道稚郎子太子は自死する。こうして、大鷦鷯皇子が践祚する。応神天皇死後も邪馬台国、つまり台与の血統が維持されたのである。このような、王位継承を巡る軍をあげての戦いは、卑弥呼擁立の前、および台与擁立の前にもあった。邪馬台国人の血の成せる業であろうか。また、王位継承をめぐり、三兄弟の長兄の殺害、および残った二兄弟による皇位の譲り合いは、神武天皇の死後にも、当芸志美美、八井耳および建沼河耳の間でも起こっていた。私は、神武天皇は架空の天皇とみており、この話は応神天皇の三兄弟の王位継承譚のコピーであろうと思う。