二十一代雄略天皇
(6)新漢(いまきのあや)

   雄略天皇の時代にも、倭国への技術者の帰化が相次いだ。

   雄略七年、天皇は、漢人の歓因知利を弟君らに副えて百済に遣わし、才芸に優れた者を求めた。そして海部直赤尾は百済の奉った才伎(てひと)を率いて大嶋にやってきた。日鷹吉士堅磐固安銭は大嶋から才伎を都に召し、吾礪の広津邑に住まわせた。しかし病死する者が多かった。そこで天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直掬に命じて、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原(かみつももはら)、下桃原、真神原の三ヶ所に移住させた。

   彼らは、帯方郡の旧地に住む漢族の手工業民であり、応神天皇の時代に帰化した漢人(古渡、ふるわたり)に対して、今来才伎(いまきのてひと)あるいは新漢(いまきのあや)と呼ばれた。陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、晝部(えかき)、錦部(にしごり)、訳語部(をさ)などの職掌を冠しており、須恵器作り、馬具作り、画工、錦織り、通訳を専門とする技術集団の長であった。これら新漢の技術集団は大和国の高市郡(飛鳥村)に居住した。後に、古渡の西漢人と東漢人は直から連に改姓したが、新漢は村主に改められた。新漢は同じ飛鳥に居住する東漢氏の統率下におかれた。そして、鞍作の司馬達等とその孫の止利仏師は仏像作製にかかわる。遣隋留学生となった高向玄理と僧旻は帰国して大化改新に参画する。蘇我氏の時代から大化改新の前後にかけて,彼らは、中央集権的な国家制度の発達と飛鳥文化の発展に貢献したのである。

   また、雄略十四年には、呉の使者と、呉(劉宋)が献じた手末(たなすえ)の才伎の漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛らが住吉津に来た。呉人を檜隈野(ひのくまのの)に住まわせた。そこは後に呉原と名付けた。衣縫の兄媛は大三輪神に奉った。弟媛は漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫の祖である。

   このように華南の呉地からも直接に女工が倭国に来ているのだ。新しいデザインの着物が伝えられたのであろう。「呉服」という言葉はここに由来するようだ。