十六代仁徳天皇
(3)治世

   仁徳元年、都を難波に遷し、高津宮といった。
   仁徳四年、天皇は高台にのぼって見渡した。すると家々から炊事の煙が立上っておらず百姓は貧しい生活をしているのだと気づいた。そこで三年間年貢などを免除した。そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていた。その後三年、気候も順調で国民は豊かになった。
   仁徳七年、春、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見た。それを見て天皇は喜び「自分は、すでに富んだ。憂い無し」と言った。それを耳にした皇后は、「私たちの住んでいる宮城の垣は崩れ、殿屋破れて雨漏りもしているのに、どうして富んだといわれるのか」と問うた。すると天皇は「昔の聖王は百姓の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。今、百姓が貧しいのは自分も貧しいのだ。百姓が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。未だかつて百姓が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えた。九月、諸国の百姓が天皇に「三年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れ、府庫は空になっています。国民は豊かになりました。税調をとり宮殿も修理させてください。そうしなければ罰があたります」と奏上した。それでも天皇はまだ我慢して許さなかった。

   仁徳十年 冬、税調を課して宮殿を造る。百姓は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励んだ。そのためまたたく間に宮殿ができあがった。これ故、天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめた。
   この善政が、大鷦鷯天皇が「仁徳天皇」と称される所以である。

   劉宋の文帝に、遣使し「使持節 都督倭 百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」とする叙爵を求めた。帝の詔を以て聞き届けられた(438年)。

   仁徳十一年、夏、天皇は群臣に、大規模な農地開発のための土木工事を行う様に詔をした。冬、河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(まむたのつつみ、大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。この時、二カ所堤防が崩れて塞ぐ事が出来なかった。この時、二人を河神の人身御供にするように、神託があった。人身御供となった一人は溺れ死に、堤は塞がった。他の一人は河神の祟りを信じず、瓢箪を河に入れ「本当に河神がいるのなら瓢箪を沈めよ」といった。瓢箪は沈まずに流れ、その人は死なず、堤防は完成したというエピソードがつく。  困難な河の堤防工事に人身御供の習慣があった事がわかる。茨田堤はそれくらいの難工事であったのだろう。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
   仁徳十二年、冬、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。これで百姓は毎年豊年になった。
   仁徳十三年、秋、茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。茨田堤が完成したのであろう。冬、和珥池(わにのいけ、奈良市?)を造り、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築いた。
   仁徳十四年、冬、灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。百姓は毎年豊年になり、凶作の心配がなくなった。この年であろうか、『記』では、難波の堀江を掘って海に通し、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)津を定めた、とある。  以前にも述べたが、大土木工事は秋とか冬の農閑期に行われている。公共事業は、農閑期の百姓に職と食を与えるためであったのだ。『記』では秦氏がこの土木工事に先進技術を持って関わったとしている。仁徳天皇が開発した墨江津は住吉津であり、のちの遣隋使や遣唐使は住吉大社に航海安全の祈りを捧げた後、この住吉津から出発した。

   仁徳六十七年、冬、河内の石津原に陵地を定め、陵を築く。
   仁徳八十七年、春正月、天皇崩御。冬十月、百舌鳥野陵に葬る。
   仁徳天皇崩御は、『宋書』倭国伝にしたがい、443年頃としたい。即位が433年とすると、在位十年となる。とてもではないが、寿陵築造に二十年はかけられない。他方、『先代旧事本紀』は「八十三年丁卯の八月十五日、天皇は崩御された」と記す。また、履中天皇条には「八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された」とある。弔事を統括したのは物部である。『紀』よりも『先代旧事本紀』を重要視したい。崩御年に四年の差が生じたのは、陵墓の築造期間であろう。天皇は、生前、陵地を河内の石津原に定めてはいたのであろう。天皇崩御により、全国の邪馬台国および不弥国の後裔の豪族や権力者を介して多数の人民が動員され、秦氏の技術指導のもとに陵墓を築造したのだ。四年の歳月をかけて世界一の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が河内国に出現したとしたい(図5)。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵 )
図5. 大仙陵古墳(仁徳天皇陵 )