二十一代雄略天皇
(1)政敵粛正と践祚

   大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、後の雄略天皇)は允恭天皇の第五皇子であり、安康天皇の同母弟である。安康天皇暗殺の事実を知った大泊瀬幼武皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。この二人は葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、葛城円のとりなしの甲斐なく、大泊瀬幼武皇子は三人共に焼き殺してしまう。また、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのべおしはわけのみこ、忍歯王)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺した。市辺押磐皇子の場合は、安康天皇が皇位を伝えて後事を委ねようとしていたことを逆恨みしたもので、鹿狩りに連れ出し射殺したのだ。その市辺押磐皇子の二人の御子の億計王(おけおう)と弘計王(をけおう)(後の仁賢天皇 と顕宗天皇)は播磨国にのがれ、国人の縮見屯倉首の家に入り、身分を隠して馬飼いと牛飼いとして仕えた。この二人の御子が逃げる途中、山代の苅羽井で猪飼いに身を窶した安曇連浜子に遭ったことは前述した。

   大泊瀬稚武皇子は政敵を一掃して、天皇の座に就いた。大泊瀬稚武皇子の政敵粛正に巻き込まれた葛城円の死により、武内宿禰が興した葛城氏は滅亡する事になる。この時、葛城円は娘の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)を妃として後宮に入れており、白髪皇子(しらかのみこ、後の二十二代清寧天皇)と稚足姫皇女(栲幡姫、たくはたひめ)を産んでいる。清寧天皇は子がなく、葛城氏の血統も、清寧天皇で終わる事になる。皇女は伊勢大神の祠(伊勢神宮)の斎王になったが、後に讒言のため経死する。

   安康天皇から雄略天皇へは兄弟による皇位継承である。雄略天皇の諱は大泊瀬幼武皇子であり、雄略天皇は倭王「武」にあてられる。『宋書』倭国伝は記す「興死 弟武立 自稱使持節 都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓七國諸軍事 安東大將軍 倭國王」(これより先、興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王を自称した)。477年のこととする。
   ここには興=安康天皇の死の年代は記されていない。しかしながら『宋書』と『紀』の記述をおしはかって、安康天皇の暗殺の翌年、464年に「武」=大泊瀬稚武天皇=雄略天皇が即位したとしたい。